願生浄土

妙好人って?



 浄土真宗の在家の篤信の人々、お念仏を歓ぶ人々、阿弥陀如来に拯済われた歓びの日々を送る人々を妙好人といいます。

 鈴木大拙師が
「妙好人と云ふ人は中々多いのである。驚くべきほど多いと云ってもよいではないかとさへ思ふ。 他力宗の生命は実にいかめしい学生達や堂堂たる建築の中に在るのでなくして、実は市井の人、無学文盲と云はれ得る、 賤が伏屋に起臥する人達の中に在ることを知つた。」(『鈴木大拙全集第十巻』p127旧字体は新字体に変換・ ルビは筆者☆すずきだいせつ=明治4年(1870)〜昭和41年(1966))
と記しておられるように、ごく普通の生活をし、特に学問をしたわけでなく、或いは文字の読み書きさえできない人々も多く おられました。

写真は讃岐の庄松同行

 そういう方々は実に見事に如来のお心に遇われ、生き生きとした言行を残されておられます。
 私達は自分の知識で「分かる・分からない」と仏法を聞いてしまいます。素直に聴かせていただけば妙好人の皆さんのように 歓びの日々を送れることでしょうに、なかなかできません。
 さて、「妙好人」という言葉は何に由来するのでしょうか。
もし念仏するものは、まさに知るべし、この人はこれ人中の分陀利華なり。(『仏説観無量寿経』註釈版p117)

 分陀利華、とは白蓮華のことです。白い蓮の花は泥の中より咲きますが、泥に汚れず、純白です。このことから、 貪欲(むさぼり)・瞋恚(いかり・ねたみ)・愚痴(おろかさ・道理を知らないこと)の三毒に汚されない清浄な心に転じた人を 表します。
 もしよく相続して念仏するものは、この人はなはだ希有なりとなす、さらに物としてもつてこれに方ぶべきなし。 ゆゑに分陀利を引きて喩へとなすことを明かす。「分陀利」といふは、人中の好華と名づけ、また希有華と名づけ、 また人中の上上華と名づけ、また人中の妙好華と名づく。この華相伝して蔡華と名づくるこれなり。もし念仏するものは、 すなはちこれ人中の好人なり、人中の妙好人なり、人中の上上人なり、人中の希有人なり、人中の最勝人なり。( 『観経四帖疏・散善義』善導大師著・七祖註釈版p.499)

 ここに初めて「妙好人」という言葉が出てきます。

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